地域農業の歴史

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屋代北部自然環境保全会 設立

規模:530ha 会員750戸
事務局長:高梨忠博氏就任

高畠町有人ヘリ防除廃止(無人化)
高畠町無人ヘリ水稲防除協議会設立(屋代地区水稲防除協議会移行)

屋代地区無人ヘリ水稲防除協議会設立

無人ヘリによる水稲一斉防除開始(実績200ha✕3回、延600ha)

屋代郷ライスセンター稼働開始

山形おきたま農業協同組合設立(広域合併)

平成6年4月1日、山形県の置賜(おきたま)地域内のJA米沢市、JA高畠町、JA南陽市、JA山形川西、JAながい、JA西根、JA白鷹町、JA飯豊町、JA山形小国、置賜酪農協の9つの総合JAと1専門農協が合併し「JA山形おきたま」を設立。
JA山形おきたまは米沢市、高畠町、南陽市、長井市、川西町、白鷹町、飯豊町、小国町の3市5町からなる8行政管内の広域JAとなった。

農事組合法人屋代農業生産組合 設立

代表理事酒井正光 就任

米沢平野土地改良区設立

国営事業により造成された水窪ダムを水源とする16土地改良区と1つの土地改良区連合が、重複および重畳の解消と、施設管理および水管理の一元化を図り、土地改良区の運営基盤の強化と事務的、技術的向上を目指し、経費負担の軽減を図る観点から、平成5年2月1日に16土地改良区は新設合併、米沢平野土地改良区連合は解散し、新土地改良区として誕生した。

高畠町農業協同組合ライスセンター建設、稼働開始

蛭沢湖 完成

昭和11年に着工し、13年の歳月と延べ40万の人力を動員して完成した潅漑用の人造湖(蛭沢貯水池)。
 湖面積25ヘクタール、潅漑面積1,400ヘクタール、最深部21メートル、貯水量220万トン。
 蛭沢貯水池の完成により大谷地地帯の大規模な乾田化が促進された。
参考資料

蛭沢湖 工事着工

潅漑面積1,400ヘクタール

 
高畠町の歴史

ウイキぺデア

これまでの経緯を地元の若い農業者に知ってほしい為に書く。
 
私が農業を本格的に始めたころ(昭和62年) は、まだ農業が元気よかった。
私の親ほどの人たちが役員だったから最初は大人しくはしていた。
でも、私の農業規模がどんどん大きくなっていったから、必然的に土地改良区の役員にもなった。
ここの土地改良区は規模も大きく、大谷地地帯を含んでおり
全国的にも賦課金が一番高いとも言われていた地区であった。
 
当土地改良区は、平成5年に
16の旧土地改良区が合併となった。
https://www.yonezawa-heiya.or.jp/pages/22/
旧屋代郷土地改良区は、旧堰ごとの屋代郷維持管理組合となって維持管理活動を行うようになった。
 
この地区は昭和時代に一度区画整理事業は行ったが、当時は10a区画であった。
それで、区画を30a程度にしようと話は進んだが、纏まらずにソフト事業だけを行ってしまった。
それ以降20年間は国の事業の採択を受ける事ができなくなっってしまった。
 
私は、役員となって1期は内容を把握してきた。
2期目では、役員(幹事)会の席上で、私が思ったことをはっきりと述べた。
それがきっかけとなり、会計除いて役員は総退陣した。
わたくしは、新体制の維持管理組合組織の規約・規則等を定め、新組合長をある人物にお願いして新体制を立ち上げた。
私は、ほぼ全員が退陣したわけだから、自分も離職すべきと判断した。
その時の組合長は、その後土地改良区理事となり、町議員を弊職して最終的に議長となった。
 
 
❖農地水保全事業
 
記載中
 
 
 
 
 
 

先輩に教えを頂いた。
当地は江戸幕府の直轄地の時期が長く、金持ちも貧乏も少ない土地だった
豊かでは無かったが、争いは少なかった
過去の戦も数えるほどの回数と聞いた
歴史 参考ウイキぺデア 高畠町
 
戦後、この地は水田の新規開墾も行われ、ブドウ園の開墾も盛んに行われた。
水稲、果樹、畜産による複合農業地帯となった。
しかし、農産物の暴落により他産業への従事者が年々多くなり農家減少、耕作放棄地が増大してきた。
 
この地帯は、水田や農業依存度がそれほど高くなかった事や
戦後から昭和26年生まれまでの農家が大多数であり
その中に強力なリーダーが不在だった事や大多数の農家が「我田引水」であった事が原因である。